谷法之さんの作品

小論 「太平洋戦争後の日系人と日本人の違い」

小論 太平洋戦争後の日系人と日本人の違い 谷 法之  第二次世界大戦、日本はアメリカのパールハーバーを攻撃し、アメリカとの太平洋戦争を始めた。そして1954年、広島と長崎での原爆投下で太平洋戦争は終わった。戦争から半世紀以上、日本には終戦記念日と原爆記念日がある。しかし、原爆並みに被害を加えたアメリカの攻撃がある。それが東京空襲であり、死者は十万五千人以上と考えられている。その被害者たちは原爆被害者たちと違い特別な扱いは無い。それに対して戦争中アメリカに住んでいた日本人は酷く扱われていた。後にその扱いが間違っていたことが認められ、記念日が出来た。空襲を受けた日本人は特別な「日」を持たないが、日系人は持っている。それは日系人が敵の近くにいたことと、日本人が「アメリカ帝国主義」に負けた事である。  東京大空襲は原爆並みの被害を出した。しかし、日本では記念日としてない。それだけでなく、世界の歴史の中では「東京大空襲」は無い。広島と長崎の原爆は歴史上あるが、大空襲はない。「広島と長崎は原爆の恐ろしさを主張するために歴史にある」という考え。しかし、二時間という時間で同じぐらいの死者を出した空襲も恐ろしい歴史である。空襲の被害者となった日本人たちは世界、特にアメリカへ怒りを飛ばすべきである。どちらかというと、日本政府にすべて任せているようである。死者の残った骨は家族と一緒の墓に入ることはない。ただ「処理」されたということだけである。この原爆と空襲の扱いの違いはおかしい。  日系人のフレッド・これまつは戦争中、日本人ということで酷く扱われていた。1944年、US v Korematsuでのアメリカ最高裁判所の判決は「捕虜収容所に日本人を入れることは合法である」であった。この判決から39年後、アメリカはこれまつ氏への酷い扱いを謝罪し、収容所にいた生存者たち一人一人に二万ドルものチェックアメリカは出した。そして2011年、一月三十日を「フレッド・これまつの日」と認定された。これは非人間的扱いを受けたこれまつ氏への日である。このような「日」が出来たのははこれまつ氏がアメリカ政府への強い反発と非道徳を主張したからである。  東京大空襲の被害を受けた日本人たちはアメリカへの謝罪を求めていない。だから「東京空襲の日」のような記念日は存在しない。被害を受けた家族が日本政府へ、そしてアメリカ政府へ謝罪を要求すれば記念日は作れることになるだろう。マッカーサーが日本に来た時、日本人が強い反発をしなかったのはすでに「アメリカ帝国主義」に支配されていたからである。「アメリカは遠い敵」という考えがあった日本人。アメリカへの反発は無かった。記念日を作るには、これまつ氏のように自分から動かなければいけない。

エッセー 「貴方が今までスペリングビーにでなかったのはなぜ」

エッセー 貴方が今までスペリングビーにでなかったのはなぜ 谷 法之  私はスペリングビーに参加した事が無い。ましてや学校のスペリングビーにさえ参加したことがない。それはただ単にスペリング自体が下手だったからであり、参加するレベルに達していなかったからである。  小学校・中学校の時に英語がとても下手だった。下手と言っても書くもの、読むもの、理解できるレベルは学年レベルの物であった。下手と言うのは他の人と比べると下手だったということである。成績はAであったが英語のクラスは一番苦手のクラスであったため、あまりモチベーションを持っていなかった。それに高校になってよく書くことになり、それまでにあまり文章を書くことは無かった。言葉とよく親しくなったのは高校に入ってから。スペリングビーの年齢制限を越えたころになる。  このころは英語よりも日本語のほうが達者だった。今では同じぐらいになるまで英語がうまくなったと思う。やはり高校で「上」のクラスを目指したことが良い方向へ行った。英語がうまくなるにはモチベーションが必要だった。

小論 「福島原発20キロ圏外強制非難は民主主義の原理に反するか」

小論 福島原発20キロ圏外強制非難は民主主義の原理に反するか 谷 法之  2011年の3月に起きた東北沖大震災の被害はとても大きなものであった。福島第一原発が放つ高濃度の放射能によって原発の周りに住む人たちは避難生活を送っている。避難生活で私物が少ないため、「実家」へ戻る人たちが次々と出てきている中、日本政府は国民の安全のためと「立ち入り禁止」地域を定めた。原発から半径3キロの場所は「一時帰宅禁止」区域、半径20キロは「警戒区域」と二つの区域を作った。この辺りは放射能の影響が一番強い地域のため、日本政府は立ち入り禁止地域にした。この判断を行ったのは政府であるが、その判断に反対する人たちが不満を出している。「あの家は、あの土地は、わしらの人生そのものだった」という男性のように、自分の家が命と同じぐらい大切なものであったという発言をする人たちが後を絶たない。強制避難を行ったのは安全のためであったが、民主主義の日本としてこのような「強制避難」、「戻った人には罰金」という考えを出した政府は民主主義の原理に基づいているのか。この判断は民主主義として間違っている。  突然避難しなければいけない状況になり、津波から逃れようと必死に逃げた人たちは精神が不安定な状態である。そして、心の不安を安らげるためにも心が安らげる所へ行こうとする。その安らぐ場所が実家、自分の家である。その家に帰れない人たちは毎日がストレスになる。戻れない理由が安全ではないという事よりも、国が帰るなと強くメッセージを出しているからである。それがさらにストレスになる。避難生活という慣れない生活に精神的に対応出来ず、老人で病院へ行く人たちも出てきている。政府は結局個人個人に被害を加えている。  人の運命は他人が決めるのではなく、一人一人が自分で決める。政府は家に帰るなという命令を出して、もうすでに人生は支配されている。この支配はすでに民主主義の政治にはなってはならない状況である。政府は「家に帰りたい」という人たちを帰すべきである。ただ、避難地域に住む間は支援や医療的サポートは無いであろう。自分の意志で動くことによって自分の運命を決める人もいれば、生きるために支配される人もいる。  政府が警戒区域を作り、だれもその地域に入れないのは国民の安全のためである。なにより、もしその地域で死人が出ても、政府は毎日確認するために人を派遣しない。必要以上に問題を増やさないためにも、政府は今最善の計画を実行している。ただ、政府だけの判断のため、反対の声が強く政府を攻撃している。今の日本政府は民主主義の原理に反するが、国民の安全のためにという理由で強制避難を行っているだけである。

小論 「人工頭脳の急激な発達と私の自衛策」

小論 人工頭脳の急激な発達と私の自衛策 谷 法之  この数年で、コンピューターはさらに進化してしまった。今のコンピューターと昔のコンピューターを比べると性能と大きさに大きな違いがある。昔のコンピューターは大きな部屋一つ分の大きさでとても人間が運ぶ事が出来るようなサイズではなかったが、今のコンピューターは数キログラムの重さで、それほど部屋のスペースを取らない。さらに、今はデスクトップのように持ち運びが出来ないコンピューターだけでなくコンピューター内にバッテリーを入れて、持ち運び可能なコンピューター、ラップトップが出てきた。コンピューターは今人間には必要不可欠な物になってしまった。しかし、ここである問題が出てきてしまった。それは人工頭脳の発達である。人工頭脳はついに人間を負かすことが出来るようになって、もはや“自然頭脳”は人工頭脳に負けてしまった。人工頭脳の発達は人間にどうゆう悪影響を及ぼすか。それは人間の進化とその可能性を消すという事である。  アメリカのテレビ番組で“Jeopardy”というクイズ番組がある。このテレビ番組はただ知識だけでなく、その時のゴシップ情報などいろいろなメディアからの情報が必要なクイズを出す番組である。従来のスーパーコンピューターは元々計算のような数学的理由で作られた物が多い。しかしワトソン、”Jeopardy”で人間を負かしたスーパーコンピューター、は言語を専門とするスーパーコンピューターである。人工頭脳はこの時点で人間よりも賢くなった。そう断言するよりも、人工頭脳は人間より大量の情報を収容することが可能になり、なおかつ自分でその必要な情報を引き出すことが可能になったということになった。人工頭脳の知能は人間が与えた知能である。そのため、コンピューターが知能を作りだしたということは考えにくい。  人工頭脳は人間の職を簡単に奪えるようになった。昔は人間が必要なもの(物理的、情報など)を見つけて提供していたが、今ではコンピューターがその必要なものを見つけて、さらに機械がその必要なものを必要なところへ持ってくるという時代になってしまった。このような簡単な仕事はとっくに機械とコンピューターに取られたが、今後さらに高度な仕事も人工頭脳に取られる。それは情報ベースの仕事や機械を使う仕事である。情報量が多い仕事ほどコンピューターは使われる。そして、その情報を提供するコンピューターは次に考え、最高の判断を出すレベルまでになるだろう。人間の仕事で消えないものは人間的判断が必要な仕事。それは人権や命の選択に関わる仕事である。そして、答えがはっきりとしていない問題を扱う仕事も消えないだろう。今のスーパーコンピューターは二つ以上の答えを見つける事が出来る。しかし、その答えが道徳的なものであるかないかは人間が判断する。道徳絡みの問題は感情が必要であり、コンピューターは感情を持てない。コンピューターは小説のような話を作ることも考えることも出来ず、また芸術を作ることも出来ない。  人間に近いコンピューターともっとも人間な人間の違いはコミュニケーションである。スーパーコンピューターは会話を行う時、出来るだけ人間のようになるよう話す。しかし、その話し方には欠点があり、出来るだけ少ない言葉で話そうとするということである。チューリングテストというコンピューターがどれだけ人間らしいかを決めるテストで、審査する人が人間、またはコンピューターと話、どの話し相手が人間であったかを判断するテストである。そこで、「もっとも人間らしい人間」に与えられる賞がある。その賞をもらったブライアン・クリスチャンはこのテストに参加した時の事、コンピューターと人間の違いを”Atlantic”の三月号に書いた。彼はより人間になるために、会話数を増やした。テストはコンピューター越しで行われた。そして、人間がコンピューターで会話する時の独特の間を消すためにまるでその場で会話しているように早く回答、または話した内容をさらに深く話すなどということを行った。コンピューターは必要以上に話さないが、人間は話す。その点を使ったクリスチャン氏はより人間に見えたのであろう。人間である証拠は会話であり、より自然に会話することが人間である。人工頭脳のそれは無い。  人間の進化と進歩は人工頭脳によって止められてしまう。人間は人工頭脳に完全に頼りきり、自分で考えるということ事態を考えない。人間は新しい発見が出来なくなる。それは疑問を持たなくなるからである。人工頭脳という便利なものが出来て、頼ることになって考えなくなる。人間は人間独特の進化を止めてしまう。自衛策として、もう計算では人工頭脳には勝てない。そのため、人間的なものだけは無くさないことが大事である。考える、疑問を持つということが人間である象徴。毎日問題を考え、疑問を持つことがコンピューターに負けない自衛策である。天才になるためだけでなく、人間として存在するためにも、毎日進歩しなければいけない。

小論 「携帯のリスクと原発のリスク」

小論 携帯のリスクと原発のリスク 谷 法之  現代の科学の進歩、新しいテクノロジーによって人間の生活はより快適かつ楽になった。3Dで見れるテレビや好きな音楽を常に身につけられるiPodなど、人間の毎日は快適になってきている。しかし、このような新しいものにもリスクがある。3Dのテレビの見すぎは目に悪い、iPodで音楽を長い間聴いていると耳の機能が低下するなどのように、そのようなリスクを背負っても人間はこの便利なものを使う。携帯と原発は便利なものになったが、ともにリスクを持つ。携帯のリスクが原発のリスクと比べて知られていないのは携帯が便利すぎるということとあまり表にでていないからである。  原発に対しての議論が活発になったのは東北大震災の影響からである。福島第一原発内の核がメルトダウンして、高濃度の放射能を放出したことが世界各国でニュースになり、原発の是非を考え直している人がかなり増えた。福島原発から半径数キロの地域は立ち入り禁止地区になり、その地域に住んでいた住民たちは避難生活を送っている。この原発事故によって各国のトップは原発の使用を止める考えを表している。原発によって電気を大量に作る便利さを買われて今まで使用していたが、今ではその存在を消そうとしている。  携帯の普及はこの数年でかなり高くなり、小学生の子供たちが携帯を持っている事はそれほど不自然でない時代となった。電話をポケットの中に入れられるという点が携帯電話の便利なところである。また、今の携帯はスマートフォーンと呼ばれ、携帯を使ってインターネットを使ったりゲームを遊ぶなどの機能を持った携帯は手放せない状態となった。日本では電子マネーを使う時のカードの代わりに使うものとなった。この携帯のリスク携帯電話を使うことでガンになる可能性があると最近の研究で分かったことである。可能性として出された結果であり、まだ確実ではない。  携帯の是非を話さないのに原発の是非を話すのは携帯があまりにも便利になってしまったからである。小さい子供でも持っている携帯は人間の日々の生活に付着してしまったからである。他人との連絡方法として使われる携帯をいまさら止めるのは難しいことである。ましてや原発のように代わりになるものが無い(原発以外で電気を作ることは可能)ため、携帯のリスクを話すことはあまり無い。そして、携帯に対しての悪いニュースに関心を持つ人はあまりいないということが問題である。新しい携帯がでた時はその新しい携帯に興味を持つが、それ以外のことだとあまり関心を持たない人が多い。またニュース自体を聞く・見る・読まない人が多いため、リスクを考える人はあまりいない。原発のことに興味を持つ人が増えたのは日本の事故よってのものであり、大ニュースになったからである。  携帯のリスクがもっと知られるには携帯によって体に害を及ぼした事件が出なければいけない。人々を引き寄せる出来事が起きて、やっとそのことに対して議論が始まる。見てみぬふりは便利になりすぎたこと。まだ確定でない研究結果で携帯を止める人はあまりいない。リスクを考えない人が多いから、携帯は無くならないが。原発には代わりのものがあるし、とても危険であるということから大騒ぎになっている。無知で電波を張っていないことはやはり危険である。