小論 「社会で正しいとされるものが間違っていることについて」


小論
社会で正しいとされるものが間違っていることについて
篠島 匠人


 社会は「間違い」でいっぱいだ。それは自分たちが今まで正しいと思っていた物の多くには、全員が気付くことはない穴が存在する。知力に欠け、誤った思考法を使った判断が社会の通念になると、社会の進行方向が危ないし、また一般市民も洞察が貧しいまま、正しい判断ができなくなるだろう。

 例えば2004年2月に発生した事故。小学校5年生の児童が校庭で遊んでいたボールを不意に蹴り出し、それを避けようとした87歳の運転するバイクが横転、骨折し後々死亡した事故がある。小学5年の過失責任をめぐって遺族は5000万円を請求、裁判所は1500万円の賠償を命じた。遺族側の主張を正しいと断定した裁判所は判断を誤っている。裁判長は「ボールが道路に出て事故が発生する危険性を予測できた」と指摘したが、ここには主語が含まれていない。事故発生箇所が球技の遊びを禁じていなかった学校のすぐ傍の道路で発生していたのだから、ここで入れるべき主語は「被害者」もしくは「学校側」。『《被害者は・学校は》ボールが道路に出て事故が発生する危険性を予測できた』。このような事故を防ぐために学校側はボールが学校から一般道路に飛び出ることが無いようネットなどを整備すべきだし、被害者は身の危険を犯してバイクで通行するべきではなかった。小学生の段階で精確なシュートを要求するのは無理があり、小学生に責任能力を問うことなど出来ないのは言うまでもなく、その児童の保護者も現場監督は学校側に委ねていたのだから、彼らに賠償の責任はないはずだ。子供と子供を育てた親が悪いと一方的な断定で賠償を命じた裁判所は間違っている。

 携帯小説が日本で流行中である。携帯小説では少年少女の不安定な情緒に共感を求めようとしている話が多い。読者は作者と同世代の人間と想定してあり、多くは若者が経験しうる悲劇・喜劇の主役であることが多い。これらは一般に知られている作家の小説からは逸脱した特徴をもっている。まず彼らは日本人でありながら誤った文章の書き方をしており、適切な校正を経ないまま出版されている。第二に、若者の描くフィクションは本当に自らが経験したことがない事柄を想像して書くので、創造性やそれに基づく語彙が不足している。第三に、彼らのあいだで共感できる事柄の多くは援助交際やセックスなど多くの若者が持つ経験やその悲痛であり、世俗的な行為に焦点を当てすぎている。
 彼らは「学校の作文」という典型的なフォーマット以外の表現法を知らないから、一方的に作文が嫌いと断定している。従って小説にしても作文にしても論理性が欠けており、創造性に富んでいない。人生のあらゆる段階において、文学を書き続けるのは悪いことではない。しかし、彼らにはそれらを理解する正しい知識や教養が不足しており、正しい書き方も理解していないと言わざるをえない。本来の日本文学から離れた現代社会に基づく欠陥文学が今の若者の間で大きな反響を呼ぶのだとすれば、それは社会全体において教養の欠如を現しており問題である。

 子供の潜在能力を遺伝子で検査するビジネスが日本でも流行っているという(そもそも社会的に話題になる流行に高尚なものはなく、これも例外ではない)。もともとは病気の予防や肥満対策など、医学に基づく療法の適正把握を目的としていた遺伝子検査が、子供の「才能や感性の判断」に使われる。遺伝子構成がどのように診断されるかも不明なまま、中国の政府機関に自分の粘膜を送るという(政府がその粘膜を勝手に使いかねないというのに)。遺伝的なパターンが才能に直結する科学的根拠は全くない。才能があるからと診断されても努力をしなければその「才能」が実ることなどない。あくまで血液型で判断する占いや性格判断のようなものであり、その考慮対象が遺伝パターンへと変わったのみである。生物の授業を受けていればこういったものが日本で流行する理由がないので、これは文科省による教育が失敗していることも意味する。遺伝子診断の流行は子どもを育てる日本男女の無知・無教養の現れである。中国を始めとした意地汚い会社は無知をターゲットにした商売がとても得意だ。知らないものが損をする構図は、一見高度な技術を使っているように見える遺伝子技術に表れている。

 君が代問題は悉くおかしい。日本国に属する教師が、個人の信条を根拠にして自らの国の歌をうたわないのは矛盾している。だから大阪府のによる君が代斉唱の義務条例化は尤もらしく聞こえる。しかしそのような条例を造らなければならない社会が正しい方向に進んでいるとは言えない。ごく一部の教師が君が代を斉唱しないのは無視できるが、条例を造るというのは斉唱しない教師があまりにも多いことの現れである。公務員の立場でありながら日本国歌を斉唱しない教師もどうかしているし、そんな人材を採用する日本国政府も人を選ぶ目を持っていない。数十年前の公立学校では日教組の強大な力で国歌斉唱や国旗掲揚を式の中に組み込むことさえしないということだった。そんな時代と単純比較すれば君が代反対派は少なくなったが、今でも国歌で論争を繰り広げるあたりまだ成長していない反対派教師は多勢居る。個人的な主観を子供にもおしつけようとする教師の姿勢は恥じるべき行為だ。

 社会には「正解」と「間違い」が明確には現れていない問題も多い。何が正しくて何が間違いかを判断するためには、まず何が問題かを自分で発見する必要がある。あらゆるものを疑い、正しい答えを出すために、洞察力を持ち、答えを導くための知識を引き出し、それらを総合して判断を出すことは日常生活で怠ってはならない行為である。