エッセー 「知的報道とそうでない報道」


エッセー
知的報道とそうでない報道
中村 茉貴


 「この頃の日本のニュースの質は落ちてきている。」このフレーズを、小耳に挟んだ。実際の所、どうなのであろうか。

 オーストラリア、そしてブラジルで起きた大洪水。それに関する日本・国際の新聞記事がある。共に大洪水について報道しているが、その内容は似つかないものである。日本の記事「豪州洪水 都市機能マヒ」は、要約すると「洪水による死傷者・緊迫した経済的影響」である。一方米国の記事は『今回の洪水の因果についての分析』である。記録的降水量の原因となったラニーニャ現象について多角的な情報が組み込まれており、これはラニーニャについての情報が皆無な日本の記事とは対照的である。分析力の問題だろう。

 2010年7月28日のWall Street Journal の記事「Lost in Translation」がある。テーマは「言語がどう人の思考・有り方を変えるか」。その一説に、次の事がある:「言語は、時空だけではなく、我々が因果関係をどう認識するかにも影響を与えている。」その例として挙げられているのは英語と日本語(・スペイン語)の文章に置ける責任追及・認識の仕方。例えば、『英語では例えそれが事故であったとしてもトムが花瓶を壊したのなら、“Tom broke the vase(トムが花瓶を割った)”と書くが、日本語・スペイン語の場合、より“the vase broke itself(花瓶が割れた)”という方が多い』という。

 つまり、日本は何かの結果として起こった事柄の「原因」を見落としてしまう傾向がある。
「日本のニュースの質」が降下しつつあるのも、日本自体が現象的状況のみに囚われ易くなっているからと感じる。つまり、現象、今現在起こっている出来事の下に何があるのかを見る知的な分析の要求が無いのである。今の現在の日本の活気の無さも、「大差で優越していた中国にGDPで抜かされ、自国は衰退するばかり」とい悲観的になっているからである。中国の成長の背景にある「コピーの原動力」やそのコピーの根源を見極めれば、活気もより取り戻されよう。

 まずは、『知的報道』に取り組み、「社会的アルツハイマー病」、そしてその症状の一部である好奇心の希薄化を防ぐ必要がある。