小説 「スパイは死ぬ」

小説
スパイは死ぬ
南原 セリーナ


 五年前。首吊り自殺があった寒い十一月三十日。真太は天国へ行った。

 監察医務院で仕事を一区切り終わらせ、紅茶を飲みながらソファに寄り掛かっていた時に電話が鳴った。

 「はい、もしもし清水です」

 「清水、杉原区もみじ町に今すぐ来い。首吊り自殺だ」

 「はい、わかりました。今すぐ行きます」

 電話を切って、ふとため息をついた。

 「今日も死を出向きますか。それじゃ、行って来ます真太」

 机に置いてある私と真太が写っている写真立てにささやいた。コートとかばんを持って、駐車場の奥に眠っている車に駆け付けて、エンジンを回した。五時の空は夕暮れが照らすオレンジ色で薄く滲んでいて、悲しみを訴えるような静けさに私は心を寄せていた。真太もこんな世の中の惨めな姿に嘆いているだろうね。人は人を憎み、恨み、怒りながらも冷めた関係にしがみ付く。信頼を心無く捨て、偽りの人生を送っている人間に腹が立つ。自分の都合いいことばかり言っていながら行動が矛盾している人間に腹が立つ。生きることに対して中途半端な生き方をしている人間に腹が立つ。こんな世の中だからこそ私は監察医として死体の中に秘めている真実を精一杯追究しようとしているのかもしれない。


 十五分後、杉原区もみじ町の隅に隠れた古びた二階建てのアパートに到着した。三台のパトカーはもうすでに止まっていて、一階の左から二番目の部屋の周りにテープが張ってあり、三十人ほどの近所の住民ばかりの野次馬があちらこちらに立っていた。

 テープをくぐり、自殺現場に踏み入った。奥の寝室に二十歳ぐらいの若い女性が服を着たまま、床に敷かれていた布団の上に寝かされていた。部屋全体はものすごくきちんとしていて、キッチンはきれいに磨いてあって、テーブルには小さな花瓶しか置いてなくて、ベッドも整ってあった。

 「若い子が自殺するなんてひどい話だよな」

 私の横に立っていた村上刑事が手袋を脱ぎながら、言った。村上刑事はもう三十年ほど刑事として数え切れないほどの事件に踏み入り、犯人をその手で捕まえた大ベテランだ。

 「そうですね」

 「遺体の名前は栗山七海さん、二十一歳だ。まあこの状況から見て、自殺だと思われる。遺体が見つかったのは今朝の八時、彼女の友人が心配して訪れたところ、発見したようだ。そこに立っている子が友人だ」

 村上さんが軽く指を指した。ベージュのコートにジーンズを履いた若い女性が警察と話していた。

 「まあ、自殺だと思うけど、後頼んだからな」

 「はい、わかりました」

 私は軽くお辞儀して、かばんからプラスチックの手袋を取り出し、はめた。そしてかばんからカメラを取り出し、遺体全体と部分的なショット、鴨居の釘の写真も取り、自殺に使われた紐をビニールに入れた。検死し始めてすぐ、妙なことに気づいた。彼女の顔面には鬱血が出現していた。普通の首吊り自殺だったら、体が宙吊りになるため、体の体重百パーセントが一気に紐にかかり、頸部の動静脈は一瞬にして圧迫閉塞される。だから、脳からの血の流れが一瞬にして停止して死亡し、鬱血なんて出現しない。でも、心臓から出て行く動脈が圧迫されずに開いたままである場合、心臓に戻ってくる静脈が紐の圧迫によって閉塞されると、鬱血が出現する。

 「おかしいな」

 私は彼女の硬直し始めた頭をゆっくり仰向けにして、首の周りを見た。頸部にできた索溝は前頸部から左右対称に下顎骨の下端に沿って耳の後方から後頭頂部までにきれいに形成されていたが、生活反応はでなかった。索溝はただ皮膚を圧迫させただけで、死因にはつながらなかった。

「生活反応がない?そしたら、自殺ではない?」

 私はもう一度頸部を注意深く診た。

 「あっ」

 左右側頸部と後頸部に薄く血液が滲んでいる水平に走る紐状の索溝があり、生活反応が確かにあった。そして、私の目は彼女の指にはめてあった指輪に止まった。そこには、「KNB・ジュリアス」と刻まれていた。

 「彼女、自殺ではない。。。五年前と同じだ」

 頭の中がぽかんと真っ白になり、体が一瞬冷えた。五年前の事件が蘇ってきた。五年前、兄の真太がアパートの寝室で首からぶら下げられ、死んでいた。私は真太が自殺するような人ではないと知っていたが、どんなに警察に話しても、聞いてくれず、かわいそうな目でしか見てくれなかった。私が尊敬していた兄が自殺するわけがない、と信じ続け、兄が自分を殺すことは絶対にありえない、あんな優しい兄が自分の命を絶つことは絶対にありえない、とこれまでずっと自分に言い返してきた。私はどうしても忘れられないことがあった。それは、兄が死んだ二日前の会話だった。

 兄はその日、私を夜の十一時に私のアパートにやってきて、息切れのまま、私に彼がずっと身につけていたピアスを渡し、必死に何かを伝えようとしていた。

 「絵里、おまえに俺の大切なものをあげるから絶対になくさないでくれ。何もかもが落ち着いてからきちんと説明するから、今だけこれをもっといてくれ。頼む」

 「えっ、どういう意味?」

 「いいから、いつかこれが役に立つかもしれない。俺に何かが起こっても、このピアスだけはもっといてくれ」

 兄はそのまま走り出し、それが最後だった。

 輪になっているピアスの内側をみると、そこには「KNB・ジュリアス」と刻まれていた。。。

 意識が現実に戻り、自殺ではないことに気づいた。周りにいた人に焦って呼びかけた。

 「すみません!遺体を今すぐに医務院へ運んでください!」

 「どうしましたか」

 「早く運んでください!彼女は自殺で死んでないと思うんです。誰かに絞殺されて、自殺のように仕掛けられたんだと思うんです。お願いします。早くしてください」

 「あ、はい」

 村上刑事に電話した。

 「村上さん、大変です。彼女は自殺で死んではいないと思うんです。自殺のように見せ掛けただけです」

 「は?」

 「とにかく、早く医務院に来てください!」


 私はかばんを持ち、車へ駆けつけた。

 医務院に着いた私はすぐに検死室に向かい、村上さんがもうすでに待っていた。

 「清水急にどうした」

 「ちょっと、見てください」

 私は手袋をはめ、遺体のそばに立ち、村上さんに現場で見つけた紐状や鬱血のことを説明した。

 「村上さん、そしてもう一つ。自殺ではない証拠を見せます」

 私は遺体の服を脱がせ、背中を見せた。

 「見てください。暗赤褐色の死斑が背中の中等度にあるんです」

 「これがどういうふうに関係するんだ?」

 「普通の首吊りだったら立位で死亡するから、死斑は下半身に出るはずなんです。死亡するときに、心臓と同時に血の循環も停止し、血は全部、重力によって下垂する。だから、本当は足の方がむくむはずなんです。見てください。足の方にはむくみも死斑もない」

 「そういえばそうだな」

 「だから、背中を下にして死亡していれば、血液は絶対に背中に集まるんです。そして、その血液が皮膚を透して暗赤褐色に見えるのが死斑なんです。でも、死後すぐに死斑が出現するわけではないんです。二~三時間すると少しずつ死斑が現れ、少しづつ色が強くなって、二十時間後には死斑が固定されます。これを踏まえて考えると、自殺したはずの人の背中に死斑ができるわけがないんです。これは—」

 「他殺だ」

 「はい」

 村上さんは暗い表情を浮かばせ、目を閉じたまま黙り込んだ。目をやっと開け、太い声で部屋の外にいた警察官に呼びかけた。

 「市村、今すぐ捜査本部に連絡だ。これは他殺だ」

 「はい!」

 警察官が廊下を走る音がかすれると、村上さんがまた話し始めた。

 「うんんん、しかし、犯人を捜す手がかりが何もない」

 「いや、五年前の事件と関係するんだと思うんです」

 「どういう意味だ」

 「覚えてるかどうか分かりませんが、五年前、兄が自殺した二日前に兄は私に彼のピアスをくれたんです」

 私はポケットからピアスを取り出し、村上さんに渡した。

 「そして、栗山さんの指輪の内側をみると同じものが刻まれてるんです」

 「ん?「KNB・ジュリアス」。。。」

 「はい、同じものが刻まれていて、何か関係しているんではないかと」

 「清水、これは」

 村上さんは指輪とピアスを見て、また考え込んでしまった。そして、やっと口を開けた。

 「二人とも自殺、同じものが刻まれている。これは、東京の不良やヤクザを牛耳っているマフィアと関係している」

 「え?」

 「十年前に警察はマフィア、「セザリアン」のメンバー十五人を覚せい剤所持で逮捕したんだが、でもリーダーの高橋貴志は逮捕されなかったんだ。俺たちにはその証拠がなかったから、逮捕することもできなかったんだ。でも、アイツは確実に覚せい剤や麻薬を密輸入しているんだが、はっきりとした証拠がつかめなくて。。。」

 村上さんは窓側に歩き、外を眺めながら悔しそうに言った。

 「どうしても証拠をつかまなくてはいけなかった俺たちは清水真太を特別犯罪対策室の一員として、スパイとして任せたんだ。彼女も、たぶん栗山七海もスパイとして働いてもらっていたんだ。KNBをシーザー暗号に通すと、MPDとでるんだ。MPD はMetropolitan Tokyo Department、ジュリアスはこのスパイプロジェクトの名前だったんだ。これは何かが起こったときにちゃんと区別できるように渡したんだ」

 私は息が詰まるように、周りが急に暗くなった。

 「清水真太は特別犯罪対策室の一員としてマフィアに入り、彼らの動きやシステムを把握していたんだ。だが、高橋に見つかり、殺されたんだ」

 「なら、あの時どうして何もしなかったんですか」

 「あの時は。。。」

 「村上さん!」

 私の目から無意識に涙がこぼれていた。

 「あの時は検死しても、自殺としか判断できなかったんだ。今回のようにセザリアンは間違えずに完璧に絞殺を実行したんだ」

 「なら、高橋っていう人をどうすれば逮捕できるんですか」

 村上さんは私の方へ向いた。

 「清水、高橋自身が殺しをしていないかもしれないが、第一級謀殺に関わっていたとして、十分に逮捕することができる。そして、特別犯罪対策室から必要のデータを入手することができたら覚せい剤密輸入の容疑で十分に逮捕することができる。清水が自殺ではないと分かったから、逮捕できるんだぞ。君のお兄さんはきっとおまえのことを誇りに思っているだろう」

 数日後、捜査本部はセザリアンの人間三十人と高橋貴志も含め、逮捕した。