小説 「多重人格」

小説
多重人格
中村 茉貴


 一九三〇年、第一次世界大戦終了十一年後に世界大恐慌が起きた。戦争に破壊され、やっと立ち直り始めた国々の経済は激しくぐらつき、再び落下を始めた。

特にイタリア、日本、ロシア、そしてドイツのいずれも戦後にひどい扱われ方、蔑みをされたものの気分は最悪。そして彼らの復讐心に燃える心は、紙切れに書かれた平和を、少しずつ、だが確実に、灰へと変えてゆくことになる。

 一九三三年、一月、ドイツ、ナチス等のアドルフ・ヒトラー、ポール・ヴォン・ヒンデンバーグ大統領により、首相に任命。その予定時刻に遅れ、かつ静かに始まり、次第に大きく、大きく、驚異的なまでに激しく、力強くなる声と手の動作は世界大戦後、勝者の欧州諸国、そして米国に侮辱された国民に希望を―彼に対する恐怖心を―与えた。

 一九三三年、ヒトラー、全権委任法を通し、ナチ以外の勢力すべてを鎮圧。

 一九三四年六月三〇日、長いナイフの夜事件発生。全権委任法で外の敵を鎮圧した後の内―つまり仲間の中の、自らの権力に驚異的な者の徹底排除。

 そう、ここからが自分の本格的な出番だった。ヒトラー直属のナチ秘密警察所属、ミヒレ・メンシェンはふと思い出した。一九三八年、彼は食品を買いに出ていた。このただでさえ寒いない四月の、更に、曇った日、出歩いている人はそう多くない。ところどころ人を見かければ彼らはベレー帽、スカーフ、襟付きのコートに、まるで身を寒さ以上のものから守られるようにと、身をすっぽり埋めているのである。ベレー帽とスカーフの間から垣間見られる目は暗く、怪しく光り、家へ家へと急ぐ足の様に、絶え間なく動いていることはたやすく予想できた。

 無理も無い。ミヒレはその栗色の髪をかきあげながら周りを見回した。目に飛び込んでくるものは決まっていた。子を抱くヒトラー、ナチの紋章である卍が中心にある白い円の中に描かれた赤い旗を持つヒトラー。その下には「Es lebe Deutchland―ドイツよ永遠に―」の文字が。他にも様々な「アーリヤ人―非ユダヤ系白人」の子供たちが楽しく遊び、学び、働く大人になる過程を描写するもの。街角に張られたありとあらゆるポスターが、そしてそこにヒトラーを含む目という目が、自分を見ている。

 心なしか、一つのポスターのヒトラーと目が合ったとき、ミヒレは電撃を浴びせられ、そのままブラックホールに吸い込まれてゆくような感覚を味わった。彼はその自分の無意識な反応に苦笑し、まぁ、あのポスターは、俺が「仲間」と貼ったものだがな、と思った。

 ―人間とはつくづく不思議な生き物だ―

不意に、ミヒレの頭の片隅で声がした。「そうだな」と彼は慣れたように気のない返事をし、歩き始めつつも周りを見回し、続けた。


「見ている」ものはポスターだけではない。腕にナチスの紋章をつけ、茶色の軍服を身にまとった兵士が二人一組で足っていたり、見回っていたりするのである。しかし、見える危険がすべてでないことを、ドイツに住む人々は既に身にしみて知っていた。

 「誰がナチスのためのスパイだか分からない」

親友であっても、近所隣であっても、自分の子供であっても自分がもしヒトラーに反感を持っていたら、それを口に出すことは自殺行為。

 ―まさに壁に耳あり、障子に目あり、疑心暗鬼を生ずることか、ヒトラーのすることにすべて賛成して、喜んで、なんとしてでもかのFüherのお怒りを買わない様にっ、とだな。―

 (今日は随分と活発なんだな、サティラ)

 ミヒレは再度呼びかけてきた声に今度は返事をした。

 (他の連中はお前がでしゃばりすぎだと憤慨していないのか。)

 ―はっ、パーミシヴィッタにトローウか。前にも教えただろう、この「二人のお前」は『長いナイフの夜」以来眠っている、と―

 (そうか)

 ミヒレはいつの間にか浅くなっていた息を大きく吸い込み、そして吐き出した。息の白い煙が宙を舞い、ミヒレの目の位置までき、そして散っていった。周りは変に曇ったことと雪の影響で、確かにそこなる町さえも不確かなものに思えた。

 「おい、ミヒレ、今日は俺とお前で仕事をするそうだ。」買い物をした翌日、ミヒレ、同僚のヴォリッジ・グファンゲンに呼び止められた。

 「丁度いい、私も貴方を探しにいくところだった。」

彼の敵はナチの紋章のみがもたれていた。

 ―今日はヴォリッジと動くのか。こりゃあ見物だ。―

前日同様サティラの声がしたが、ミヒレはそれを無視し、彼と同じ始め方でヴォリッジに話しかけた。

 「今日は近くの町に出向いて、ユダヤ人の関与している店、及び施設をレッテルすると。」

 「まあ、そういうことだ。」

 「他に私たちと同じ命令を受けた者はいるでしょうか。」

 「さあな。まあFüherはすべて考えているさ。ほら。」

  話し込んでいる間に、いつの間にか目的地についていたらしく、みひれは大きな髪を数枚とテープを渡された。

―また、ポスターか―

「.....」

 ミヒレは無言で一軒の店のガラス窓にポスターを貼り始めた。横ではヴォリッジが鼻歌まで歌いながら黄色い大きなダビデの星を店のガラス窓に描いていた。

 「何故わざわざ一般的な服で出動させられたのでしょう。」

答えはなんとなく分かっていたが、ミヒレは聞いてみた。

 ヴォリッジは鼻を鳴らし、声を低くし、ミヒレより大きなその身をかがめて答えた。

 「決まっているだろう。俺達の仕事は秘密情報を得て、ヒトラー様の、国の敵をつまみ出し、この国の将来を安定させることだ。秘密情報を得るには、軍服など、まあ脅迫は別としてもっての他。警察がいるのを知っていてわざと殺人をするようなマネをする奴がいないのと同じ心理さ。」

言い終えると彼は再び自分の作業に戻り、今度は

 「Deutsche!Wehrt Cudy! Kauft nicht bei Juden! ―ドイツ人よ!自らを守れ!ユダヤ人の店で買うな!」
と唇に不可解な笑みを浮かべて書き始めた。

 すると突然声を上げ、あたかも後ろを行きかう人々に聞こえるよう、長広舌を始めた:

 「ヒトラー様は戦後、あの忌まわしき国々が我々に与えてきた屈辱を、今あいつらに何倍にもして味あわせている。知っているか一九三六年三月のラインランドの再軍備の成功を。知っているか、フランスや英国、ましてや米国は、あれほど偉ぶっていたのに、手も足も出せなかったという事を。三月にアンシュルスが起きたとき、あのお高いベルサイユ条約であれほど禁じられていたのに、ヒトラー様は戦争一つなくして、それを実現させたんだ!」

 興奮する彼の後ろを見れば、反応は様々であった。そそくさとその近くを去ろうとする者、ヴォリッジの発言に満面の笑みで頷いている者、そして―

 「あの狂犬を、まるで神様のように...!」

  ポソっと落とされたその言葉は、この世で一番重いもののようなインパクトと、この世で一番冷たい水を背中に入れられたような感覚を味あわせた。おとした本人が自らの失態に気付き、口を塞いだのは明らかだった。

 近くを歩いている人の中には歩みを止めたり、鋭い視線をこちらに向けたりする者がいた。口を滑らせた女性は、人ごみに紛れ込もうと必死であった。しかし、どんな人ごみの中でも、例え大量のわらの中の釘であっても、それは無謀であった。ヴォリッジの目は、見入れを向き、一瞬勝ち誇ったような輝きをみせ、人ごみの中へと消えていった。

 ―あーあ。かわいそうになぁ。あのヴォリッジに捕まるとは。―

 (仕方ないさ。残された俺の仕事は、ポスター貼りとレーベルを塗り終えることだ。)

 あれ、今日もヴォリッジは来ていないのか、とミヒレは思った。彼と二人一組でポスター貼りをして以来、彼の事は見かけていなかった。

 ―(もしかしたら)―

 再び響いたサティラの声と、自身の思惑が、ミヒレの背筋を凍らせた。

 ナチスのモットーとはヒトラーの言う完全な国を創り上げること。ユダヤ人、同性愛者は勿論、黒人、ロシア人、同性愛者―そして精神異常者、あるいはヒトラーの力を脅かす者は排除。

 「例えそれが、あの方を大いに尊敬するあまりの結果であっても」

  ふらふらと歩き始めながらつぶやいた。ミヒレは、ヴォリッジの異常なほどぎらついた目や、不可解に笑っている唇を思い出した。彼は、多分、いや絶対精神異常者として、消されたのだろう。
すると、また新たな心配事が出てきた。彼は額を掌で叩いた。

 「待てよ、それなら俺っ、俺はどうなるんだ?俺は―」

  多重人格者。そう言いかけてあらゆる方向から感じられる、無数の針に刺されているような感覚から、言葉を飲み込んだ。そして思わず便所に駆け込み、その一室の壁にもたれかかった。

 ―ははっ。馬鹿かお前は。多重人格者が何だ。お前はそれ以前にこのゲスタポの一員だろうが。おまえ自身の死を覚悟して、何千という、自分に関係の無い者の自由を奪い、命を奪ってきたんだろうが。―

 (それでは俺が今までその殺しに耐えてきた意味が無くなるじゃないか!俺は、ただナチスに反抗するものを、命令だから殺め、殺めていく事でやっと自分の中の甘さ―

パーミシヴィッタも、悲しみ、トローウも、やっと眠らせることが出来たというのに!目立たなければ、反抗さえしなければ、出た釘にさえならなければ、これさえ俺と同じ様に耐えていれば、生きることが出来るのに!)

  ミヒレが歯を食いしばり、そうはき捨てると、サティラからの返答は無かった。

 (サティラ!何故返事をしない!俺が死ねばお前も道連れだ!違うのか!?)

 ミヒレの叫びはただ、彼の心を惑わせるばかりであった。

 そして五月、六月、七月も過ぎ、一九三八年八月、ミュンヘン会議でイタリア、フランス、英国がチェコスロバキアの意思を無視し、そのスデタンランドをドイツに署名し渡した。ヒトラーが三国に対しこれ以上チェコスロバキアの侵略はしないと誓ったことを耳にし、今度こそ平和が来た、とミヒレは思った。しかし、ミュンヘン会議までの間ずっと、そして十一月になった今も、いつもは容易に出来ていたサティラとの「通話」が出来なくなっていた。目を閉じてもだめ。サティラが一番話が合うと気に入っていたゲスタポ員と共同作業を行っているときも成功なしであった。

 「ヒトラーはもう本当にこれ以上侵略をしないのだろうか。」そうサティラに聞くつもりで考えていたら、思わず口に出してしまった。『それはどういう意味だ』『まさか反ヒトラー的な考えをしているのか』という知りすぎたオーラが身近に感じられた。

 「あ、いや、ね外国のドキュメントを整理するとついあっちの忌まわしい言葉遣いが出てくる。困ったもんだ。」

 顎を触り、わざと眉間に皺を寄せ、ミヒレはいかにも苛立った雰囲気を醸し出した。ここで誰もフォローしてくれなければ、それこそアウトだ。

 「ああ、der Füher がこれからももっと国を広げ、我々の素晴らしい文化を世界に広めるのを優先にするか、今はフランス等に気配ってやるかって事か。メンシェル氏。」

  少々ハスキーな声の、鼻が目立つ隊員が話しを誘導すると、場の殺気も和らぎだした。

 「助かりました。まったく、言葉の選択は本当に昔から苦手で。ええと...」

 「ノトワシディケット・ヒルフです。いえ、苦労はお互い様ですから。」

  二人が手を取り合ったそのとき、軍人の足音が迫ってきた。

 「おい、聴いたか。ユダヤ人の奴がパリでドイツ大使館の従業員を撃ったそうだ!」

  何!?それは本当か!?という激怒の叫びが場内で飛び交った。ミヒレは、まだ自分の手と繋がれたままになっていた手が、急に重くなったように感じた。―十一月七日、一九三八年。

 「十一月九日、一九三八年。前々日に下郎たるユダヤ人がドイツ人を撃った。これから行うことはこのようなあるまじき行為に対しての彼らへの警告と、躾である。」

たった一日前の(正確に言えば二日前の)事件が、今日と、前々日を変えてしまった。ユダヤ教の者に対する迫害は急激に激化し、亡命する者も少なくない。ミヒレは、九日に負傷したため、自宅で休みながら、九日を思い出していた。

 ユダヤ人は下郎であるから、だから、我々ドイツ人に反抗にしたから、殺して良い。ついでにこれに逆らうものも抹殺してよいと。そう自分で、九日に殺した一〇〇人ものユダヤ人の血で町中、いや国中にそのメッセージを書いた様な気分であった。

 彼は腕のスワスティカに目をやった。仕方ないさ。元はといえば七日にドイツ大使館の従業員を撃った奴が悪いんだ。

 ―(でも、何故彼は撃ったんだ?)―

 ―...珍しいな、俺と、いつもやった事を忘れ去るお前と意見が合うとは―

 (何だ、久しぶりに出てきて言う事はそれだけか?)

 ―俺は立腹してんだ。それよりお前はどう思うんだ。さっきの疑問のこた―

 サティレが話し終える前に突然誰かがミヒレの家のドアを叩いた。同時に、ミヒレは体の骨すべてを叩かれた気分になった。見慣れた自分の家の木造のドアを見れば、めまいが襲ってきた。

SS,SS,次第にうるさくなる自分の鼓動が警告音を鳴らした。しかし、

 「私です、メンシェンさん。お願いです私と、私の家族をかくまってください」

 「ヒルフさん?」

 たった数日前に自分を救ってくれたあのハスキーな声が、今度は地獄からのお告げに聞こえてきた。

 「これまた何で...」

  ドアノブを押しも引きもしない手が、汗だくになっていくのが感じられた。

 ―......―

 《かくまってくれ》

  それはドアの向こう側の相手がつい最近まではいくらSSでも同じドイツ人で、人間であった相手が、ヒトラーの説く「下郎」であることを確定させた。そしてその「下郎」を今ここで助ければ、誰が、いつ、どこで見ているのかなど、到底知りえない。

 「お願いだ!」

  相手の悲痛な哀願に耳がなる。

  ―同じ「多重人格」ではないか。誰がどう行動するのか分からない。友達だったものの人格が、急に凶暴なものと入れ変わったんだ。同じ多重人格者として、いくらシステムだとしても、放って置くわけにはいくか!―

  サティレの言葉と共に、ミヒレの意識は急に遠のいた。すると、頭の中でサティレが意識のコントロール権を握っていた。

  サティレはドアノブを、ドアが開くように回し始めた。

 (うああ、や、やめろ!)

  ミヒレは慌てふためき、喚いたが、サティレはそれを無視した。

 「入れ、さあ、今の内に」

  『ミヒレ』は促した。

  ノトワンディケット・ヒルフに続き、その妻と子らしき人物達が少ない荷物を抱えて転がり込んできた。

 「貴方達は何故ここへ?貴方もナチス等の一員でしょう。」

  ミヒレならぬサティレは続けて問うた。 ノトワンディケットは口を重々しく開いた。

 「実は私の家系にロシア人とユダヤ人の血が少しずつ...ほんの少しずつ入っていることが分かってね...もう、ここから逃れるのは手遅れなんだ。」

 短い期間であったが、心を通わせ、第一あの七日に彼の命を救ってくれた男が、目の前で土下座している。

 ―お前は、人の命を切ることで自分のを伸ばしてきた。さて、どうするか。別人でも、それを少し返す気があるかどうかは、お前しだいだけどな。―

 サティレの声が響くと、ふと、ミヒレの意識が戻った。とたん、かれの口が開いた。

 「スパイというものは...覚悟していた通り、ものを知りすぎる。」

  彼のほほを、涙がつたった。

 それから四ヶ月が経ち、一九三九年、三月。ユダヤ教徒や、兎に角「ドイツ人」以外の完全根絶は熱を増した。

  ―ドンドン、ガン

ミヒレの家の木造のドアが蹴り倒された。

 「ミヒレ・メンシェン。隠れても無駄だ。お前の去年からの不安定な忠誠心にしろ、ユダヤ系者を匿っている事など、すべて見通している。」

  突入してきた兵士の腕には、逆卍が、赤い生地の上で黒く光った。