創立10周年記念に寄せて

2007年4月28日にグロスマンアカデミー創立10周年記念式典 を無事終えさせていただく事ができました。 ご父兄の皆様にはいろいろとご協力頂き、あり がとうございました、これからも、グロスマンアカデ ミーが15年、20年と続いていくこと願っておりま す。以下に10周年記念式の模様、 校長ならびに御送りいただいたメッセージをご紹介いたします。
(式幹事:谷理事)


左から:夏木理事長、グロスマン先生、谷理事(10周年式典:司会)

グロスマンアカデミーは10週年を迎えました!    グロスマン校長

グロスマンアカデミーという日本人のための学校がカリフォルニアのパロアルトの一隅に出来たのは10年前でした。世界のどこで生きても、強靭な日本人としての、アイデンティティをもちながら、世界的な教養と思考力を持つ、知的な巨人に育ってほしいという願いをこめて、出発した小さな帰国子女の学校です。

もしこの10年のうちに、すなわち、480日の土曜日をつかって、初期の願いを達成できていなかったら、学校は、10週年記念の日を持とう等とは、思わなかったでしょう。ところが、グロスマンアカデミーは今年から、堂々と、生徒一人一人を天才にするという目標をかかげられるようになったのです。

この10年間に、学校は伸びました。生徒たちが皆伸びました。グロスマンアカデミーは、生徒の変身の学校と成りました。天才的な知の変身を遂げられる学校であると、皆が自信をもっています。50人以上のそういう卒業生達が、すでに、世界の舞台で、勉強し、仕事のプロとして活躍しています。

毎年伸びているから、10年目の今年の到達点は今までで、さらに、光り輝く物に成りました。新卒業生達の進学する大学が世界的に1流なだけでなく、在校生も粒ぞろいです。だから、学校は大喜びで、10周年の講演会を開催しました。

講演してくださる人を外部に求めなくても、内部に、粒ぞろいの覇者がいられます。ご父兄のなかに、グローバル時代の各界の第一人者がいられますので、その方々に講演をしていただきました。それぞれ、人生の先達として、専門家として、素晴らしい講演をしてくださいました。次の方々です。

グロスマンアカデミーの理事荒井新太郎さん(宇宙衛星技術者)

MediBic グループ 代表取締役社長 橋本康弘さん
(橋本さんに関しての情報はグーグルに1万項以上のっているようです。どうぞ、グーグルを参照してください)

夏木博二さん(半導体の技術者で、数学ロマンチシスト)

なお、ご出席は不可能でしたが、スピーチを書いて下さった方がおられます。そのスピーチを、ここに掲載させていただきます。



グロスマン先生のこと     平本敦代(北米毎日 前編集長)

グロスマンアカデミー創立10周年、おめでとうございます。 直接皆さんにお会いして、お祝いを言いたかったのですが、 どうしても都合がつかず、文書にさせていただきました。 私は、サンフランシスコで発行されている、北米毎日新聞社の 編集局で22年間働き、3年半前に引退しました。グロスマン玲 子先生とのお付き合いは1988年からです。

初めてお目にかかり、書いたのが人物紹介コラム『翔ぶ』でし た。グロスマンアカデミーのホームページで同校の特徴を読ん で、まず感慨深かったことは、グロスマン先生の信念が、行動 が全く変わっていない、ということでした。そこには、私が書 いたことと同じことが書かれていたのです。そして、生徒の皆 さんが書かれた学校紹介を読んで、皆さんが待ち焦がれる学校 であることに感動しました。登校拒否やいじめ、荒廃が嘆かれ ている日本の学校の先生達に、いや文部科学省のお役人達にグ ロスマン先生から学んでいただきたいと強く願っています。 グロスマン先生は茨城県生まれ、小学校2年から東京で育って います。東京女子大英文科を卒業、グロスマン氏と結婚して74 年に渡米、84年に『わたしのアメリカ、息子のアメリカ』を出 版されました。彼女の目に映るアメリカ、息子さんの通う小学 校を通して知ったアメリカ、息子さんが体験したアメリカがつ づられ、大変興味深い本です。

先生はこの頃から南アラメダ郡仏教会の日本語学校で、89年か らは日本語補習校で教えておられました。その当時、生徒の詩 を北米毎日新聞に掲載したことが、補習校でじわじわと始まっ ていた、グロスマン叩きに油を注いだようです。要するに、出 来る人に対する反発ですが、これが原因で、97年に先生は補習 校を辞め、保護者の方達の協力でグロスマンアカデミーを開校 されたのです。

この前後だったと思いますが、読者の方から掲載された詩に感 動した。生徒さん達に自分の気持ちを伝え、励ましたい、とい う連絡がありました。グロスマン先生と相談して、十数人の生 徒さんに紀伊國屋書店の図書券を送っていただきました。若い 生徒さん達の詩が、お年を召した方を感動させたのです。自分 の思いを表現すること、それを読んで感動してくださる人がい ることは、何と素晴らしいことではありませんか。私も長年新 聞に書いて来て、どれだけ読者の方々から励まされたか分かり ません。

また、先月末、北米毎日新聞から福島大学の某教授のメール が転送されてきました。これこれしかじかの記事を89年ころ、 北米毎日新聞で読んだ。現在、研究をまとめて出版しようと思 っているが、その研究のきっかけとなったその記事を序論に入 れたいので、出来たらその連載記事を全部欲しい、とのことで した。現在、編集局で働いている人達は、そのころ居ませんで したから、その記事が何だか分からず、私に問い合わせて来た のです。私は教授が書いておられる内容から、グロスマン先生 が書かれた『アメリカ、ブルーカラーのおかみさん達』の連載 ではないかと思いました。手元のファイルのグロスマンを開け てみると、この連載の控えの原稿が出てきました。急いで目を 通すと、中頃に教授の書いておられることに近い記述があった のです。だいたい、編集局では、あちこちから送られてくるニ ュースリリースや原稿を、そのまま取っておくことはしません 。掲載記事に関する苦情があった場合に、元の原稿と照らし合 わせるために、1カ月ほど保管した後、捨ててしまいます。と ころが、『ブルーカラーのおかみさん達』の原稿は、そのまま 私が自分のために残していたのです。きっと捨て難かったので しょうが、びっくりしました。教授には、コピーを送りました 。

20年近く前の連載が、当時、ウイスコンシン大学マジソン校で 客員研究員をしておられた教授の目に留まっていたのです。同 校の日本人教授が北米毎日を購読しておられ、それを毎週見せ てもらっていたということを、後で知りました。改めて、プリ ント媒体の影響力を教えられた思いです。

ところでグロスマン先生は、日本語学校で教え始めてすぐに、 フリーモントのオローニカレッジで日本語を教え始め、その1 年後にはアダルトスクールからも声がかかり、教え始めたので す。補習校に替わった時も、先生は夜、会社が終わってから日 本語と日本について学びに来る大人達を教えていました。高学 歴の彼ら彼女らは、いろいろな民族の人々でしたが、知識への 姿勢が、多くの日本人とは異なり、非常に激しいことを先生は 知ったのです。そういう大人達を相手に、先生がどれだけ情熱 を込めて教えてこられたのか、想像してみてください。 今、グロスマンアカデミーには「日本語を軽蔑し、愛さない生 徒の在籍を許さない」という校則がありますね。これは、日本 語を世界の財産と見て、教えている先生の信念から出たもので すが、それが校則になったのには、次のようなエピソードがあ ったのです。

2000年頃、日本人生徒とアメリカ人学生との交流を図るパーテ ィーを開いた時のこと、一生懸命日本語を学んでいるアメリカ 人学生に、日本人の生徒が「僕は日本語が大嫌いです。日本語 は不完全な言葉ですよ」と言ったそうです。彼の父親が「日本 語は科学に適さない」と、言い聞かせていたらしいのです。こ の生徒には辞めてもらったそうですが、それ程、先生の日本語 に対する思いは熱いのです。これは1つの例に過ぎませんが、 先生は、アメリカの2つの学校と補習校での経験から、新しい 教育観と教育方法を見いだし、グロスマンアカデミーで実践し ておられるのです。

「天才をつくる」というグロスマンアカデミーの募集要項に、 入学試験の記載はありません。定員を超える時は断っていると 聞き、いかにもグロスマン先生らしいと思いました。先生はあ なた方一人ひとりの可能性を信じているのです。先生はあなた 方の中に、あなた方も知らないキラリと光るものを見つけるこ とを、ご自分の使命と信じておられるのです。これまでにどれ だけの先輩が、先生によってそれを見事に引き出してもらった ことでしょう。

グロスマン先生は、本当にすごい先生です。髪の毛はすっかり 白くなられましたが、その信念、内に秘めた情熱には、一片の 陰りもありません。有言実行の人です。こんな先生から人生の 大事な時期に教えを受けている皆さんは、本当に幸せですね。 グロスマン先生と皆さんのご健康、そしてグロスマンアカデミ ーの発展を心からお祈りしています。



サイファート先生のスピーチ

高木先生のスピーチ

独古先生のスピーチ



グロスマン先生のこと     山口 前理事長ご夫妻

私たち夫婦がグロスマン先生と係わり合いを持つようになったのは、家内の知人である福田さんからの紹介によるものでした。1995年に福田さんご夫妻がグロスマン先生の米国にあっても日本人の子女には理想的な日本語の教育をしなければならないと言う主旨に賛同されグロスマンアカデミーを手作りで立ち上げられました。私どもの次男も当時高校3年生の時グロスマンアカデミーでお世話になりました。どのようなきっかけであったのかは忘れてしまいましたが、グロスマン先生が突然、「日本人は自己表現が下手なので、生徒たちには国際人として通じるようになって欲しい。そのためにパフォーマンスの授業として歌、演劇及びスピーチの中から一科目をグロスマンアカデミーの卒業の為の必修科目とする」と言い出されました。福田さんから私共夫婦に相談がきまして、若い頃に演劇の経験があった私の家内が演劇担当、会社で話す機会の多かった私がスピーチを担当する事になりました。生徒たちは月曜から金曜まで現地校に通い、土曜日のみグロスマンに通ってくる為、生徒たちに大きな負担にならないようにパフォーマンスの授業を考える必要がありました。

スピーチの時間は、生徒達の緊張を和らげるため、発声練習、前を見てアイコンタクトをし、気楽に話すと言う基本的な事から始めました。短い自己紹介から始め、自分の好きな事、嫌いな物など簡単な内容から次第に話しに肉付けをし、最後に原稿無しで10分程度スピーチが出来るように半年間の目標を作りました。最初は照れてモジモジしていた生徒たちに冷や冷やさせられましたが次第に自信を持ち始め、半年後の発表の時には生徒たちは自信に満ちてスピーチを見事にやってくれました。私自身、生徒たちのポテンシャルの高さに大変感動したものです。 2年間スピーチの先生をしましたが、生徒たちからパフォーマンスの授業は負担が多いと言う意見が出始めましたので中止をする事になりました。しかし、生徒達との授業は私にとって大変貴重な経験になりました。

又、グロスマンアカデミーがカリフォルニア州から非営利団体の学校として認可を受けないと税金の問題等面倒な事が多くあるとの事で、まず、学校としての体裁を作る事になり私がグロスマン先生から理事長をやってくれるようにと依頼があり初代の理事長を引き受ける事になりました。州の調査員が学校として認可するか否かグロスマンアカデミーの実態を調べに来た時に生徒たちにインタビューをしました。内心、心配をしていましたが、生徒たちがグロスマンアカデミーの本来の姿を語ってくれたお陰で州から学校としての認可を受けることができました。理事長としての仕事はありませんでしたが、出張のない時はグロスマンアカデミーにできるだけ顔を出すようにしていました。グロスマン先生とは学校運営の件で意見の違いもありましたが、先生の教育に対する情熱には感心させられる事が多かったです。

手作りで始まった学校ですが、日本政府から補習校として認可され益々発展される事を祈っています。

(山口 純史)


ドラマのクラスのお手伝いを頼まれて、初めてクラスに顔出しした日の事は、いまだに忘れられません。お手伝いのはずが、指導者らしき大人は私一人、脚本も無い、発表まで十数時間の授業時間しかない、決まっているのは発表会の日にちだけ、舞台作りにはこれ以上無いという最悪の設定でした。

唖然として、逃げ腰になったのですが、生徒達のグロスマン先生がやれというからやると言う前向き(?)の意見に引張られて、生徒たちに脚本を書かせ(いや、書いてもらい)書きあがったところから立ち稽古に入り、やっと出来上がる寸前で主役が病気で倒れて、それでも舞台の幕は開きと波乱万丈の船出でした。

結局、二年間で3つの舞台を発表しましたが、それぞれに思い出があります。一作目は、全くの創作劇でアメリカへ来た少女がアメリカでいかに馴染んでいったか(これは、全編英語)、そして日本へ帰っての逆カルチャーショックをどのようにして乗り越えていったかという物語でした。ただ、土壇場で主役交代になったために脚本に手を入れて、作った脚本を劇中劇にして(劇を練習している設定なので、芝居が下手でもセリフを覚えていなくてもかまわない)、ドラマのクラスを再現したりと(もちろん私も指導者の役で出演)工夫した事がかえって、良い結果になったようでした。

二作目は、また一から脚本を作る気になれず、一時帰国した折に高校生の為の脚本を多量に買い込んできました。ドラマに参加してくれた生徒が多かったので、全員出したくて出演者の多い脚本を選びましたが、本格的な脚本は主役級の生徒達の負担が大きく(セリフが多い)、現地校の勉強も大変な時に相当な量のセリフを覚えるのは、かなり無理があるなと思いました。それでも必死でセリフを覚えた生徒達は、立派だったと思います。 そして最後の舞台は、3人の女の子の積極的な参加で可能になりました。ただ、今思い出すと、あの芝居は、男子校の為に書かれたものだったのではないかと思います。それをわざわざ選んだのは、それまでの2作が生徒たちの実像に近い物だったので、逆にまるで実像と違う物を選んで、芝居をする事自体を楽しみたかったからです。そんな訳で、最後の舞台の二人の死神と男子生徒の芝居は、私も女生徒達も大いに楽しんだ公演でした。 あの三つの芝居が生徒達に何か役に立っただろうかとかなり疑問なのですが、ただ、どんな劣悪な環境でも何かやろうと思えばやれるものだという自信にはなったのではないかと(私もかなり自信がついたので)思います。

グロスマン先生には、息子二人が大変お世話になりました(長男は、補習校で)。高校2年生でグロスマン先生に出会うまで全く文が書けなかった長男が今、調査会社でレポートを書くことを仕事にしているのを見ると、先生は、どんな魔法を使われたのだろうとかと感謝いたしております。本当にありがとうございました。 グロースマンアカデミーの益々のご発展をお祈りしております。

(山口 利由子)

グロスマンアカデミーと私     福田正子


グロスマンアカデミーが十周年になるというお知らせを頂いた。

ミュンヘンからカリフォルニアのサニーベールに移った時は、息子は中学二年生、娘は小学六年生だった。週末二人は補習校へ通った。高校生の子どもを持つ母親から、補習校にはすごい先生がいる、特に小論文の教授方法は素晴しく、その先生に教わらないなら補習校へ子どもを行かせる意味がないと聞かされた。そんな噂話は他所でも聞いた。
ずっと先のことと思っていたが、息子は、補習校の高校二年生になりグロスマン玲子先生のクラスに入った。順番で決まっていたのか、私はクラスの委員になった。噂の通り、先生は、知的で熱くて魅力があって、そして特別だった。
息子は、数学や物理など科学的なことにより興味があった。面談で、先生は、文学芸術にも双方に長けているべきであり、世界的に優れた人は皆そうであって、理科系文科系だのと言っているのは日本ぐらいなのだと言われた。日本人では、養老猛、佐治晴夫、多田富雄の三人の名前が上がった。
情熱を持って真っ向からぶつかりながらも、グロスマン先生は、生徒に対して優しかった。けれど、先生は、組織や大人の感情の揺れに上手に付き合うことには、全くといっていい程関心を払わなかったし、出来なかった。今まで、ずっと頑張っていた力が尽き始めたのか、徐々に補習校の中で疲弊していった。理想の授業が出来にくくなり、体も不調をきたし、先生は補習校の校長先生宛に辞表を出してしまった。先生の授業継続を望み、教育状況の改善と、辞表の受理をしないよう望む生徒と保護者が運動した。校長先生との話し合いには、クラス全員の保護者が夫婦で参加したが、学校側はグロスマン先生の辞職を決定し、先生は補習校を去った。

それから、全てが、始まった。
学校を作ることになった。
リベラルアーツ……も候補に挙がったが、先生の名前から、グロスマンアカデミーと名前が決まった。
グロスマン先生の指導を受け保護者で理事会を構成し、私は名ばかりの事務長役を引き受けた。
先生が授業で取り上げたい本は、出版社や作家に教科書掲載許可を請う手紙を書いて送り、教科書作りも始まった。作家やその相続人から、教科書への使用を許可する旨の文章が次々に日本から届いた。圧巻は赤瀬川原平氏からのもので、期限の欄には「有限」とだけ記されていた。その字は、これ以上でもこれ以下でもないと表明している様に見えた。お母さん方は、先生が印を付けた本をコピーした。用意された本は様々だった。新刊本あり、文庫本あり、文字の大きさも形もいろいろ、拡大縮小と工夫しても限度があり、作業は大変だったはずだが、教科書の内容に関心があった為か、皆、楽しんでいるように見えた。
生徒がいい小論を書けないのはお腹が空いているからと先生が言えば、お母さん方はおむすびを差し入れた。その頃のうちの電気釜は一升炊きだったから、50個ぐらいおむすびを作ることができた。
教科書が完成していなくとも授業は開始されていた。
少しでも理想に近づくために、先生はいろいろ試みた。
気になるひとりの生徒の為に、周りへの影響を考慮し、逆にそれを考えた上で特別の課題も作った。生徒の力を信じていたから、課題は難しく、時代に先んじていた。養老猛、新解さん、携帯電話、レクサスとオリーブツリー、ファストフードネイション……日本では、グロスマン先生の後追いかと思われるようにブームも起きた。
息子は補習校の1年間を足せば2年間グロスマン先生に鍛えられ、娘は3年間グロスマンアカデミーに通って卒業し、勢い私には事務長という名が3年間付いた。

卒業後、娘は日本に帰国し、大学入学準備のために有名進学塾に入った。その中で、受験の技術を学び日本にも慣れていった娘だが、小論のクラスには初回にだけ出席すると、あとは最後まで出ずに受験した。出席する意味がない、グロスマン先生に習ったものを失いたくないというのが娘の弁だった。
子どもたちは、27歳と25歳になった。
噂話が当てにならなかった例なら、世間にはたくさんあるが、グロスマン先生に関する噂は本当だった。
子ども共々、たいへんお世話になり、とても貴重なたくさんの経験をした。グロスマンアカデミーに育ててもらったと思う。心から感謝している。

十周年のお祝いに代えて。